土御門院が外された『百人一首』

ご存知『百人一首』は、歌聖と称せられ、現在の冷泉家につながる藤原定家が撰んだ歌集です。

その気難しい気性から昇進が遅れていた定家ですが、後鳥羽院に歌の才を認められて抜擢され、『新古今和歌集』の編纂という大事業にも携わります。

定家は後鳥羽院に仕えながら 三代将軍の実朝に和歌の指導をしたり、御家人・宇都宮頼綱(蓮生)の娘を息子・為家の嫁に迎えるなど、鎌倉幕府に接近していました。
有力御家人との縁を結ぶのが当時の貴族の流行だったのです。
ところが、承久の乱 が起こります。
後鳥羽院が鎌倉幕府・北条義時討伐の挙兵を命ずる直前、些細なことで院の怒りを買った定家は蟄居を命じられており、これも幸いして、“鎌倉寄り”の公卿として、乱ののちに定家と為家は順調に昇進していくのです。


そんな定家が晩年、宇都宮蓮生の求めに応じて編んだとされるのが、『百人一首』です。
これは、なにかと不思議な歌集だとされてきました。
有名な歌人でも代表作が撰ばれていないとか、植物や季節など題材に不自然な偏りがあるとか、研究者が首をひねることが多いのです。

和歌を家業として父から厳しい指導を受けた定家は、万葉集から源氏物語、古今和歌集など、それまでの膨大な歌をほとんど記憶していただろうといわれており、それらをベースに自由自在に歌を詠んだ天才歌人です。

その謎を解いた、という学説はいくつもあります。

その一つが、初めと終わりの各2首に注目したものです。

終わりから2番目、99番は 後鳥羽院 で、人の気持ちはわからないなぁと歎ずる御詠。

Tシャツのデザインにもなっている人気の一首です:

 人も惜(お)し 人も恨めし あぢきなく 世を思ふゆえに もの思う身は

後鳥羽院は、もちろん土御門院の父帝。

そして最後の100首目が 順徳院
土御門院の譲位によって即位され、後鳥羽院とともに承久の乱を推し進めた異母弟です。

 百敷(ももしき)や ふるき軒端の しのぶにも なほあまりある 昔なりけり

いっぽう『百院一首』の冒頭 第1番は 天智天皇で、第2番が娘の 持統天皇

天智天皇は中臣鎌足とともに蘇我氏を滅ぼした乙巳(いっし)の変を起こし、即位後、藤原の始祖となった鎌足とともに「大化の改新」を推進した方。
定家の頃から 500年も前の天皇です。

持統天皇は鎌足の子の藤原不比等の協力を得て、新しい宮(後に「藤原京」と呼ばれる)を確立した女帝。

この親子の天皇、二組が冒頭と掉尾に置かれたことは、どういう意図があるのでしょう。


その前に、不思議だと思われませんか?

後鳥羽院の嫡子にして次代天皇は土御門院です。
土御門院も藤原定家やその盟友の歌人・藤原家隆から教えられ、多くの歌を詠まれました。しかし、選ばれていません。

藤原家隆は、定家の父・藤原俊成の弟子で、歌人としては定家と並び称される歌人。
後鳥羽院歌壇の中心メンバーであり、院が隠岐に流された後も和歌の交換などで交流を続けました。生涯に詠んだ歌は6万首もあったという大歌人(Wikipedia)。

百人一首には98番として:

 風そよぐ ならの小川の 夕ぐれは みそぎぞ夏の しるしなりける

が置かれています。

土御門院が配流先から師の家隆に送った御詠に対して、家隆は「すばらしい」「おどろきです」「申し分ありません」などと絶賛の評をつけています。

たとえば配流の途中、あるいは配流先での土御門院の御製です:

 おもかげも 絶えにし跡も うつり香も 月雪花に のこるころかな

 吹く風の 目に見ぬかたを 都とて しのぶもくるし 夕暮の空

 うき世には かかれとてこそ 生むまれけめ ことわりしらぬ わが涙かな


なのに、定家は『百人一首』から土御門院を外したのです。

『百人一首』に選ばれた歌人には不遇の人生を送った人が多いといわれます。
また心情的に悲しみや寂しさが詠みこまれたものが多いです。

土御門院も、父帝と弟帝と同じく配流先で都を恋しく思いつつ崩御されたとされています。

なのに、なぜ・・・。

それは、冒頭の親子が、二人で 藤原氏の繁栄をもたらした天皇 だということから推測すると、最後の親子が二人で 藤原氏の栄華を終わらせた天皇 だという対比ではないでしょうか。

和歌の世界では、よく歌合(うたあわせ)という競技形式の歌会が催されました。
最大のものは後鳥羽院が指名した30人が100首ずつ詠進した3000首をペアにして優劣を決めた『千五百番歌合』というすごいものです(1203年成立)。

貴族の世とは“藤原王朝” とも呼べるもので、冒頭の2人が始め、掉尾の2人が武士政権に敗れ去ったことで終わらせたことを、懐かしんだ。

この組み合わせなら、人の世の無常を思う後鳥羽院と昔を偲ぶ順徳院の歌が撰ばれたこともよく分かります*。


土御門院は、藤原平家が占めていた宮中で唯一、源氏(村上源氏)ゆかりで、鎌倉幕府とも縁故のあった皇族です。

土御門院の母は 源 通親 の養女であり、承久の乱ののちには通親の四男・源 定通の屋敷に土御門院の母と皇子(邦仁王)が暮らします*。定家が没した翌年、その邦仁王が 後嵯峨天皇 として即位されます。背景には、北条義時 の娘(竹殿)が定通の側室となっていて、鎌倉幕府との連携があったとされています。これが宮将軍の実現につながることはいうまでもありません。

定家には、土御門院の皇統は 鎌倉武家政権側 にあると映っていたのではないでしょうか。

実際、後嵯峨天皇は三代執権・北条泰時と連携して、鎌倉幕府、そして日本を安定に導かれることになるのです。

恩人・後鳥羽院を裏切ったように周囲から見られていた定家が、みずからが選らんだ自分の97番は、隠岐の後鳥羽院への言い訳のような一首です。

 来ぬ人を まつほの浦の 夕なぎに  焼くや 藻塩(もしほ)の 身もこがれつつ



*『百人一首』と同時期に編まれた『百人秀歌』との対比などから、最後の2種は息子の為家が定家の意向を汲んで編入したという説もあります。
*土御門天皇という 諡( おくりな)自体が、土御門大路に屋敷のあった 源 通親 の別称である 土御門通親 にちなんでいます。なお、陰陽師・安倍晴明の子孫の土御門家も同じ土御門大路の別の場所にあった屋敷によります。


阿波国 御所神社

スサノオノミコトを祀る吹越神社として創建年代不詳の古社 承久の乱ののちに土佐を経て遷幸された土御門上皇の行宮址にあった御所神社を昭和32年に合祀し、以来、御所神社となる