奥御所神社 異聞
土御門上皇に随き従った澁谷家に伝わる『帝王略記』において詳しく描かれている、上皇終焉の地、宮川内谷の御所神社。
寛喜3(1231)年辛卯11月、北條の家臣・七條板東が討手として御所を襲撃。少数の供と逃れられたものの、ここでお腹を召されたといいます。
この御所神社には、実はもう一人の天皇に関する伝承があります。
それは屋島の戦い(1185年)の際、安徳天皇が陣を離れてここにお隠れになっていたというのです。
江戸中期の文献『燈下録』にあります。
(徳島県立図書館・デジタルライブラリ)
これによれば、陣には身代わりを置いて屋島から秘かに宮川内の「奧の御所」に遷っておられたというものです。
屋島の戦いは那須与一の扇の的のエピソードが有名ですね。
阿波経由で攻め寄せた源 義経の奇襲によって、平家一門は屋島の内裏から壇ノ浦へと向かいます。
その際に安徳天皇は 平 教盛 らとともに祖谷方面へと移動されたという伝承を紹介しています。
『燈下録 巻之一』
https://library.bunmori.tokushima.jp/digital/monjyo/gazou/toukaroku1.html
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御所跡
同(板野)郡宮河内村御所山越(大たを越と云)といふ道あり、此の幽谷に奥の御所、口の御所といふ行宮の跡あり(御所大明神の社あり)元暦二年の春 平家都を落とさせ讃岐国八島の浦に仮に内裏を建てられしかども軍兵のみ防ぎたたかひ、天皇は此の山中に御所を建て潜行ならせ給ふ、口の御所は猶ほとちかしとて奥の御所に御座ありけるが、すでに八島の軍やぶれしと聞しめし、猶又麻植郡木屋平山に巡狩し給ひ、つゐに美馬郡祖谷山に皇居ましましてかの地に岩隠れ給ひぬとなん。
平家物語、盛衰記等には長門国壇浦にて入水せさせ給ひぬと見へたれど そは表の説なり、実は門脇中納言 教盛卿等供奉し給ひしにこそ、今の祖谷 阿佐の名主即正しき彼の卿の苗裔なり、その外さるべき殿上人等もば陪従ひおはせしとぞ、此の他名主等に平家の遠孫など多けれ。
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文化9年は1812年。
『帝王略記』の内容とは別の話で 土御門院ご自害の伝承を否定するものではありません。
安徳帝が居られた奧の御所だからこそ、土御門院がめざされたのかもしれません。
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