合祀の嵐と御所神社

徳島県立図書館の『阿波学会研究紀要』は貴重な研究論文の宝庫です。
しかもインターネット上で拝見できるので、とてもありがたいソース。

 *下は2009年の第55号 表紙

その『郷土研究発表会紀要』第36号に「土成町における神社の変遷の概要」という記事がありました。執筆者は史学班の出口大士さん。

https://library.bunmori.tokushima.jp/digital/webkiyou/36/3618.html

土成町における神社の変遷の概要

阿波学会研究紀要史学班  出口大士1 はじめに 弥生時代・古墳時代と人々が住みついてきた土地である。それぞれの時代に、人々の宗教意識が信仰のかたちをとり、産土神などの形をとってカミが祀られてきたものと思われるが、今その証跡を辿るのはまことに困難である。 古代に入って、記録の上に残されたものとしては、延喜式神名帳記載の建布都神社があり、古代創建の伝承をもつ神社として、奇玉神社が存在する。中世以降は、熊野信仰、天王信仰などが盛んになるに伴い、これらを勧請した神社が多く建てられるようになった。 神社の創建あるいは祭祀のありかたを明らかにし、その後の移り変わりを辿ることは、祖先の生活・意識を知る上で大切なことであろうと思われる。不十分ではあるが、土成町についてまとめてみたところ、ほぼ次のようなことが浮びあがって来た。2 古代氏族と神社(1)『延喜式神名帳』(927完成)には、阿波国阿波郡として、「建布都神社」が記載されている。『特選神名牒』によると、その所在は阿波郡土成町大字郡となっている。現在の板野郡土成町大字土成郡に当たる。古代には土成の地名は見当たらない。現在の土成町秋月は、『和名抄類聚抄』(承平年間 931-937成立)によると阿波郡に属しているので、現土成町は古代にあってはその西部は阿波郡に属し、東部は板野郡に属していたわけである。 建布都神社の祭神建布都の神は、布都主神・布都神とも称し、物部氏の氏神であり、大和の石上坐布留御魂神社系統の神である。『阿波国徴古雑抄』所収の「田上郷戸籍残簡」(延喜2年.902造作)によると、当時物部氏を称する人々は相当多く居住し、全戸口478のうち、凡直(オオシノアタイ)の72、家部(ヤカベ)の59に次いで、51を占めている。田上郷の所在については明確にされていないが、『大日本地名辞書』では、吉田・高尾・宮川内のあたりと推定している。言うまでもなく現在の土成町である。古代にはこのあたりに物部氏が相当多く、その人達によってこの建布都神社も祀られたものであろう。 今日、式内社建布都神社として、上述の郡の社のほかに、論社として、成当の赤田神社と市場町香美の建布都神社があげられている。中世以降、豪族の移動、氏子の変遷などで古代の面影は薄れ、一時八幡神社を称したこともあったが、依然、武の神としての尊崇を受け続けたものと思われる。『阿波志』(1

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神社についてはいずれも興味深い内容ですが、御所神社に関係する部分のみ、紹介させていただきます。

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御所神社(吉田字椎ケ丸)は、もと吹越天王社といわれ、牛頭天王を祀り、吉田岡の山にあった。永祿年間(1558~1570)此の地の有力者原田義富、三木景久によって京都八坂神社から勧請されたと伝えられている。
元禄9年(1696)現在地に遷座。氏子は吉田地区全域にわたっており、『徳島県神社誌』によれば350戸を数える。この地域の中心的神社として今日まで尊崇されてきた。
主祭神は素戔鳴命であるが、相殿に土御門天皇を祀り、他に国常立命をはじめ20柱の神が合祀されている。

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京都からお招きした、そう伝わっているのですね。しかし京都の八坂神社に鉱山・製鉄に関係するといわれる「吹越」の名は見当たりませんから、スサノオなら祇園さんだろうということで勧請された(はず)ということになっているのかもしれません。
徳島の神社には、全国の有名神社の、実は “元宮” だという話が多いのですが、それは阿波古事記研究会のほうにお任せしましょう。


併せて22柱が大集合…。
御所神社の古い手水石に「吹越天王」と刻まれています。正徳年間は江戸中期(1711年-1716年)です。

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大正2年、吉田の吹越神社へは、野神社7、山神社4、五柱神社3、などの28社が合祀されている。吉田地区は宮川内の南に広がる平闊地で、もとは原田と呼称されていた。吉田という好字を用いるようになったのは元禄(17世紀末)の頃からとされている。
阿波用水が開通するまで、古くは水利にめぐまれず、畑作を主とする農業で、牛馬の飼育なども行なわれていた。野神社・山神社が数多く存在していたのは、そのような農民の生活と深く関わっていたと考えられる。合祀全体で野神社13、山神社11を数えることからもこのことは窺えるし、この間、氏子たちの抵抗も相当大きなものがあった。

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ここに合祀されたということは実に多くの神社が無くなったということ。それは抵抗もあったでしょう。

1906(明治39)年から始まった神社合祀政策の結果、全国で1914(大正3)年までに「約20万社あった神社の7万社が取り壊された」とWikipedia にありますが、実態はそんなものではなかったのではないでしょうか。

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の後、大正4年、大正5年、大正6年、大正12年、大正15年と合併は続き、最も新しいのが、昭和32年の吹越神社への御所神社の合併である。吹越神社はこの合併によって、御所神社と社名を改めることになる。

吉田御所屋敷にあった御所神社は、土御門天皇を祭神としていた。御所屋敷の地名は、承久の変(1221)によって土佐に流された土御門上皇が、後に阿波へ遷られたが、その折の御所の跡という伝承からきている。明治以後、吉田地区と宮川内地区とで御所村を形成し、土成村と合併して土成町となるまで続いたが、その御所の村名も以上の伝承にもとづくものであった。

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地名「土成」については諸説あり、この辺りの「土がなるい」からというものまであるが、はじめの配流地に因んで “土佐院” と称されていた土御門上皇がおなりになった地であるというのが最も説得力があります。
阿波郡土成村板野郡御所村が1955年に合併して 板野郡土成町(現・阿波市土成町)になるのも、土御門上皇への敬慕の思いが2つの村を結んだのでしょう。

なお、“土御門” の諡号は、外戚であり、承久の乱後も深い関係のあった土御門(源)通親の通称に拠ってご崩御ののちに定められたものです。


御所神社が吹越神社に遷され、廃された経緯についても、紹介されています。

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昭和に入って、あらためて土御門上皇を奉斎する神社として、鳴門市大麻町池谷字大石に県社(当時)阿波神社が造営された。このことについて『徳島県神社誌』には次のように述べている。

御祭神の土御門上皇は、承久の変により、承久3年閠10月土佐に遷幸され、更に貞永2年5月阿波に遷られ約9か年望郷の念やるかたなく、さびしい生活に耐えられながら寛喜年3年(1231)10月11日土成町御所にて崩御された。
上皇の御火葬塚の東北に隣接している現在の社殿は、昭和15年に県が二千六百年記念事業として造営したものである。
『阿波志』に「土御門天皇廟 池谷村天皇山南麓に在り」と記されているが、もと火葬塚の北に丸山神社」(通称天皇さん)とよぶ土御門天皇社を変更し、県ではその東側で本格的な神社造営にとりかかり、県民あげての奉賛と勤労奉仕によって昭和18年10月7日竣工、同9月盛大に本殿遷座祭を斎行した。昭和18年県社となる。

以上のような情勢の中で、御所屋敷に祀られていた無格社(当時)の御所神社が次第にその影を薄くし、遂に合祀されるまでに到ったのも蓋しやむを得ないところであった。そしてその社名だけは、吹越神社にかわって御所神社としと残ることとなったのである。また、旧地にあった立派な石の鳥居も移転されている。
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1940 (昭和15) 年の「皇紀2600年」の波に洗われたということでしょうか。
阿波神社が土御門院の公式の神社となったことで、土成の御所神社の維持が難しくなったというわけですね。

合祀に反対した知識人たちは多く、なかでも南方熊楠が挙げた悪影響は次の通り:

①敬神思想を弱める
②民の和融を妨げる
③地方を衰微する
④民の慰安を奪い、人情を薄くし、風俗を害する
⑤愛国心を損なう
⑥土地の治安と利益に大害がある
⑦史跡と古伝を滅却する
⑧天然風景と天然記念物を亡滅する


たしかに、熊楠の危惧が現実のものになっている一面はありそうです。

それでもいまだ徳島県内には多くの神社があり、いま改めてその “心” をとり戻そうとする動きも興っているように感じられます。
当社も改めて、新しい取り組みを始めているところです。


なお、当社の稲垣宮司が兼務する神社はいくつかありますが、宮川神社もその一つ。

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宮川神社(宮川内字宮ノ尾)も、もとは牛頭天王と称していた。吹越天王社の神霊を分祀して、一村の鎮守としたものである。慶安4年(1651)の棟札が残されている。明治初年八坂神社と改称し、明治44年(1911)吉野神社他24社を合祀して、宮川神社と改称し今日に至っている。

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こちらにも 24社を合祀したといいます。
時代の趨勢として、持続可能な形としてはやむを得なかった気もします。
戦後の “政教分離” のあり方や学校教育で宗教を避ける方針については、いずれ日本人が向き合わなくてはならないことではないでしょうか。

それにしても、かつての日本人が持っていた信仰心の篤さには驚きます。


阿波国 御所神社

スサノオノミコトを祀る吹越神社として創建年代不詳の古社 承久の乱ののちに土佐を経て遷幸された土御門上皇の行宮址にあった御所神社を昭和32年に合祀し、以来、御所神社となる