合祀の嵐と御所神社
徳島県立図書館の『阿波学会研究紀要』は貴重な研究論文の宝庫です。
しかもインターネット上で拝見できるので、とてもありがたいソース。
*下は2009年の第55号 表紙
その『郷土研究発表会紀要』第36号に「土成町における神社の変遷の概要」という記事がありました。執筆者は史学班の出口大士さん。
https://library.bunmori.tokushima.jp/digital/webkiyou/36/3618.html
神社についてはいずれも興味深い内容ですが、御所神社に関係する部分のみ、紹介させていただきます。
***
御所神社(吉田字椎ケ丸)は、もと吹越天王社といわれ、牛頭天王を祀り、吉田岡の山にあった。永祿年間(1558~1570)此の地の有力者原田義富、三木景久によって京都八坂神社から勧請されたと伝えられている。
元禄9年(1696)現在地に遷座。氏子は吉田地区全域にわたっており、『徳島県神社誌』によれば350戸を数える。この地域の中心的神社として今日まで尊崇されてきた。
主祭神は素戔鳴命であるが、相殿に土御門天皇を祀り、他に国常立命をはじめ20柱の神が合祀されている。
***
京都からお招きした、そう伝わっているのですね。しかし京都の八坂神社に鉱山・製鉄に関係するといわれる「吹越」の名は見当たりませんから、スサノオなら祇園さんだろうということで勧請された(はず)ということになっているのかもしれません。
徳島の神社には、全国の有名神社の、実は “元宮” だという話が多いのですが、それは阿波古事記研究会のほうにお任せしましょう。
併せて22柱が大集合…。
御所神社の古い手水石に「吹越天王」と刻まれています。正徳年間は江戸中期(1711年-1716年)です。
***
大正2年、吉田の吹越神社へは、野神社7、山神社4、五柱神社3、などの28社が合祀されている。吉田地区は宮川内の南に広がる平闊地で、もとは原田と呼称されていた。吉田という好字を用いるようになったのは元禄(17世紀末)の頃からとされている。
阿波用水が開通するまで、古くは水利にめぐまれず、畑作を主とする農業で、牛馬の飼育なども行なわれていた。野神社・山神社が数多く存在していたのは、そのような農民の生活と深く関わっていたと考えられる。合祀全体で野神社13、山神社11を数えることからもこのことは窺えるし、この間、氏子たちの抵抗も相当大きなものがあった。
***
ここに合祀されたということは実に多くの神社が無くなったということ。それは抵抗もあったでしょう。
1906(明治39)年から始まった神社合祀政策の結果、全国で1914(大正3)年までに「約20万社あった神社の7万社が取り壊された」とWikipedia にありますが、実態はそんなものではなかったのではないでしょうか。
***
吉田御所屋敷にあった御所神社は、土御門天皇を祭神としていた。御所屋敷の地名は、承久の変(1221)によって土佐に流された土御門上皇が、後に阿波へ遷られたが、その折の御所の跡という伝承からきている。明治以後、吉田地区と宮川内地区とで御所村を形成し、土成村と合併して土成町となるまで続いたが、その御所の村名も以上の伝承にもとづくものであった。
***
地名「土成」については諸説あり、この辺りの「土がなるい」からというものまであるが、はじめの配流地に因んで “土佐院” と称されていた土御門上皇がおなりになった地であるというのが最も説得力があります。
阿波郡土成村と板野郡御所村が1955年に合併して 板野郡土成町(現・阿波市土成町)になるのも、土御門上皇への敬慕の思いが2つの村を結んだのでしょう。
なお、“土御門” の諡号は、外戚であり、承久の乱後も深い関係のあった土御門(源)通親の通称に拠ってご崩御ののちに定められたものです。
御所神社が吹越神社に遷され、廃された経緯についても、紹介されています。
***
昭和に入って、あらためて土御門上皇を奉斎する神社として、鳴門市大麻町池谷字大石に県社(当時)阿波神社が造営された。このことについて『徳島県神社誌』には次のように述べている。
御祭神の土御門上皇は、承久の変により、承久3年閠10月土佐に遷幸され、更に貞永2年5月阿波に遷られ約9か年望郷の念やるかたなく、さびしい生活に耐えられながら寛喜年3年(1231)10月11日土成町御所にて崩御された。
上皇の御火葬塚の東北に隣接している現在の社殿は、昭和15年に県が二千六百年記念事業として造営したものである。
『阿波志』に「土御門天皇廟 池谷村天皇山南麓に在り」と記されているが、もと火葬塚の北に丸山神社」(通称天皇さん)とよぶ土御門天皇社を変更し、県ではその東側で本格的な神社造営にとりかかり、県民あげての奉賛と勤労奉仕によって昭和18年10月7日竣工、同9月盛大に本殿遷座祭を斎行した。昭和18年県社となる。
以上のような情勢の中で、御所屋敷に祀られていた無格社(当時)の御所神社が次第にその影を薄くし、遂に合祀されるまでに到ったのも蓋しやむを得ないところであった。そしてその社名だけは、吹越神社にかわって御所神社としと残ることとなったのである。また、旧地にあった立派な石の鳥居も移転されている。
***
1940 (昭和15) 年の「皇紀2600年」の波に洗われたということでしょうか。
阿波神社が土御門院の公式の神社となったことで、土成の御所神社の維持が難しくなったというわけですね。
合祀に反対した知識人たちは多く、なかでも南方熊楠が挙げた悪影響は次の通り:
①敬神思想を弱める
②民の和融を妨げる
③地方を衰微する
④民の慰安を奪い、人情を薄くし、風俗を害する
⑤愛国心を損なう
⑥土地の治安と利益に大害がある
⑦史跡と古伝を滅却する
⑧天然風景と天然記念物を亡滅する
たしかに、熊楠の危惧が現実のものになっている一面はありそうです。
それでもいまだ徳島県内には多くの神社があり、いま改めてその “心” をとり戻そうとする動きも興っているように感じられます。
当社も改めて、新しい取り組みを始めているところです。
なお、当社の稲垣宮司が兼務する神社はいくつかありますが、宮川神社もその一つ。
***
宮川神社(宮川内字宮ノ尾)も、もとは牛頭天王と称していた。吹越天王社の神霊を分祀して、一村の鎮守としたものである。慶安4年(1651)の棟札が残されている。明治初年八坂神社と改称し、明治44年(1911)吉野神社他24社を合祀して、宮川神社と改称し今日に至っている。
***
こちらにも 24社を合祀したといいます。
時代の趨勢として、持続可能な形としてはやむを得なかった気もします。
戦後の “政教分離” のあり方や学校教育で宗教を避ける方針については、いずれ日本人が向き合わなくてはならないことではないでしょうか。
それにしても、かつての日本人が持っていた信仰心の篤さには驚きます。
0コメント