土御門院の御生母


土御門院のお母様・在子のこと。

Wikipedia でも、直接ご本人に関することはせいぜい次のような履歴だけで、お人柄などは想像もできません:

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源 在子(みなもと の ありこ/ざいし)
承安元(1171)年 - 正嘉元(1257)年

第82代 後鳥羽天皇 の妃で 第83代 土御門天皇 の生母。
父は 法勝寺執行能円で 母は 藤原範兼の女 藤原範子。
源 通親 の養女。
院号は承明門院。

父の 能円 は平 清盛の妻・時子の異父弟 であった関係から法勝寺の執行に任ぜられる。
母の 範子 は 高倉天皇 の 第四皇子・ 尊成親王 (後の 後鳥羽天皇) の 乳母 を務めた。
寿永2(1183)年、平家が西国に落ちた際に 能円は平家に同行、のちに流罪となる。

通親は後鳥羽帝の乳母である在子の母・範子と結婚、通親は新帝の乳母父の地位を得る。
養女とした在子は後鳥羽天皇の後宮に入り、建久6(1195)年12月に 為仁親王(後の 土御門天皇 )を出産。

正治元(1199)年 従三位准三后
建仁2(1202)年 院号宣下を受け承明門院
建暦元(1211)年 出家
承久3(1221)年 承久の乱 により配流された土御門院と生別

土御門上皇が 通親 の孫娘・通子との間に儲けた 邦仁(くにひと)王 は在子の実家・土御門殿で養育されている。
承久の乱によって在子は実家が没落し苦しい生活を強いられた。

仁治3(1242)年、四条天皇の崩御により 邦仁王が践祚 ( 後嵯峨天皇 )。
後半生は不遇であったが、晩年には孫の皇位継承を目の当たりにすることができた。
正嘉元(1257)年、87歳で死去。

Wikipedia 源 在子 より
 

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土御門院が阿波でお暮しだった頃は、土御門邸におられたのですね。

後鳥羽院は土御門院がお生まれになったあと、在子を遠ざけたという記録があります。といっても、当時の記録を残しているのは源氏(土御門一門)に対立する、平氏・藤原寄りの人たち。

たとえば『愚管抄』 によると、在子は母範子が死去した後、養父である通親と密通したため、後鳥羽上皇は修明門院重子を寵愛するようになったとし、上皇と重子の間には皇子も多く誕生したと描かれています。

美川 圭氏はこの記事について、重子の寵愛を在子の密通のせいにするのは土御門通親に失脚させられた九条(藤原)兼実の弟である著者・慈円 の曲筆だとしています。

いずれにしても、藤原氏と平氏が占める朝廷において範子と在子の母娘は孤立を感じられていたのではないでしょうか。

承久の乱のあと、上の記事では“実家が没落”して“不遇”だったとありますが、剛腕・源 通親の跡を継いだ四男・土御門定通(さだみち)が甦ります。

定通は生まれた翌年に叙爵を受け、14歳で正四位下、翌年には従三位、更に2年後には正三位というスピード出世をします。異父姉になる在子の別当として後鳥羽院政の中枢に入り、権大納言にもなります。また兄の娘は土御門院のもとで三男二女(後嵯峨天皇を含む)をもうけています。

一方で、家柄からすれば遥か格下の北条氏から妻:竹殿(北条義時の娘;泰時の妹)を迎えるなど、すでに鎌倉との関係を強めていました。

後鳥羽院政の関係者として承久の乱によって失脚。甥の土御門院は土佐へ、更にはその妃である義妹・通子の病死など、その政治的基盤を一旦は失います。

でも北条氏との縁戚関係が活きて復権、内大臣となって承明門院(在子)と邦仁王の後見人として機会をうかがっていたようです。

承久の乱から21年、四条天皇が急死されます。

定通はさっそく使者を鎌倉に送って執権・北条泰時に邦仁王の擁立を働きかけます。泰時もこれに応じて安達義景を派遣して、順徳院の皇子が即位する準備を始めていたのを押し切って後嵯峨天皇を即位させたのです。



親政をおこなった後嵯峨天皇のもとで定通は後見人として権勢を振るいます。幕府と協調して朝廷改革や顕徳院と決まっていた諡号を後鳥羽院という追号に改めるなどの政策を進め、「末世の才卿」「高才博覧の人」と評されました。

そんな土御門の屋敷で享年87才と長命を得られた、お母様の在子でした。

土御門定通像(三の丸尚蔵館蔵『天子摂関御影』)

(文責:土御門上皇顕造学会・京都支部)

阿波国 御所神社

スサノオノミコトを祀る吹越神社として創建年代不詳の古社 承久の乱ののちに土佐を経て遷幸された土御門上皇の行宮址にあった御所神社を昭和32年に合祀し、以来、御所神社となる