澁谷家に伝わる『帝王略記』
『帝王略記』(現代語訳)
某の父、彦太郎重行は澁谷入道昌俊の次男でした。
承元2年戊辰2月、実朝が彦太郎を呼んで某に代わって土御門院をお守りするようにと命じられて、西條彦大夫と改名して御所で忠義を尽くしました。
建暦元年辛未、順徳院が7才、実は5才でご即位になりました。
すると 北條泰時 が謀反を起こし、承久3年辛巳、新院(*順徳帝)は佐渡へ、後鳥羽院は隠岐へ送られ、その後に土御門院は 土州蕨カ岡 に送られました。
ご懐妊中の某女御様も密かについてゆかれ、嵯峨山 に縁を求めて隠れて無事に出産されました。若宮はご運なく一七夜に亡くなりました。
父ともども阿州に下り、島田隠岐守義実と協力して義実の家臣である谷孫之進が同行して貞応2年癸未11月に土州蕨カ岡から池ノ谷へご案内しました。
原田城 6町南に御所を造り、貞応3年甲申正月15日、新御所にお移りいただき、土御門院御所 として尊敬を集めました。
冬11月、元仁と改元されました。
寛喜3年辛卯11月のとき、北條の家臣・七條板東 が討手として御所を襲ってきました。
護衛の者が戦ううちに帝王は細尾から宮川内谷の奥へ隠れられました。
しかしご運がなかったのでしょうか、もったいなくも12日辰の刻、御覚悟され37歳にて崩御されました。
御陵は御所の南あたりへ15日寅時に葬りました。
彦大夫は敵を追って行き、池ノ谷で深手を負って戻り、18日に死去。57才でした。高井大法寺あたりに埋葬。
父彦大夫が死ぬとき、某を呼び、女御様がご無事であればご存じないので、お前は早く往けと言われ、急いで嵯峨山に立ち帰り、お目にかかって阿州へお守りしてご案内し、帝王の御所の御屋敷にお隠れになりました。
しかし敵に風聞が伝わったので、密かに 宮川内 の東の山にお隠れになりました。この女御様は親王家の御姫様なので、山ノ王子嵯峨の御庵 として大事にいたしました。
詳しくは系図の巻に記します。もっとも帝戦なので別紙にもおよその概略を記録しておくものです。
貞永元(1232)年壬辰
昌俊次男 西原彦大夫重行
嫡子 新太郎久信
以上、虫が喰ったので書き写した
応仁戌子年正月15日
12代の孫 澁谷重郎俊久
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小杉榲邨(こすぎ すぎむら)編著『徴古雑抄』参照
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