阿波国 御所神社
スサノオノミコトを祀る吹越神社として創建年代不詳の古社
承久の乱ののちに土佐を経て遷幸された土御門上皇の行宮址にあった御所神社を昭和32年に合祀し、以来、御所神社となる
阿波国 御所神社について
御所(ごしょ)神社は 徳島県阿波市の神社。
社名は鎌倉時代初期、土佐を経て阿波に遷幸された 土御門天皇 のために設けられた行宮(あんぐう;仮の御所)にちなんでいます。
所在地:徳島県阿波市土成町吉田椎ヶ丸6
御所神社 歴史
正確な創建年は不詳です。
椎ヶ丸古墳と呼ばれる四国最大級の「前方後方墳」の頂きに鎮座しています。
元の社名は 吹越神社で、「ふっこうさん」「ふっこしさん」と呼ばれて人々の崇敬を集めていました。
大正2(1913)年に村内の 28社 を合祀。
昭和32(1957)年、土成町御所屋敷(南南東1.5km)に鎮座していた御所神社の合祀を機に 御所神社 と改名されました。
御所神社「神社誌」より
御主祭神 素盞鳴命・土御門天皇
相殿神 国常立尊・他十九柱
古くは吹越天王社と云われ、吹越天王縁起によれば、天禄年間に高林坊盛尊が讃岐国多津浦から吹越天王の尊像を奉じて奉祭の霊地を探求し当地に至り、神のお告げにより岡の山に奉祭せんことを思い、領主 原田義富、三木景久と相議り共に願主となり一社を造営し奉斎したものと伝えている。それを元禄九年に神宮寺別当順雄は年々宮川内谷川の洪水のため宮地の崩れるを憂い、現在の宮地に奉遷したという。
明治四十一年 村社に列せられ、「吉田の天王さん」と近郊の人々に親しまれ、庶民の信仰の篤いお社であった。大正二年 吹越神社 外二十七社を合祀し、更に昭和三十二年に御所屋敷に鎮座の御所神社をも合祀し 社名を 御所神社 と改め今日に至っている。
椎ヶ丸古墳
椎ヶ丸古墳
全長75mの四国最大規模の前方後方墳*。
御所神社はその頂上部に鎮座しているとみられます。
道路工事に伴って発見され、簡単な調査ののちに埋め戻されているため詳細は不明です。
西に椎ヶ丸遺跡群*があります。
*前方後方墳
主に弥生時代後期末から前方後方墳の祖形である前方後方形墳丘墓が造られ始め古墳時代前期前半に東日本(東海・関東地方)で前方後方墳が多く造られた。100メートルを超える規模の大きな前方後方墳5基が大和に集中し、あとは下野に2基、上野・越中・美濃・駿河に1基ずつ存在する。
日本列島には約500基の前方後方墳が存在する。
(Wikipedia)
*椎ヶ丸遺跡
椎ヶ丸遺跡は宮川内谷川の左岸、標高約90mの河岸段丘上から発見された 約25,000~20,000年ほど前の旧石器時代の遺跡である。
1990(平成2)年に高速道路建設に伴って調査が行われ、多くの石器が出土している。
出土した石器は国府型ナイフ形石器などの中とする狩猟具が多く、その他のナイフ形石器をあわせるとこれまでの調査や採集により100点以上のナイフ形石器が出土していることになる。最も多くの石器が広範囲より出土していることから、県下最大の旧石器時代の集落遺跡と考えられている。
(徳島県立埋蔵文化財総合センター)
https://www.pref.tokushima.lg.jp/rekishiru/remains/5022959
境外摂社と関連寺院
上皇が土佐より阿波に遷られたのち、崩御までの行宮であったと伝えれています。
周辺には「北門」や「遊塚」、「風呂屋式」などの地名が残っています。
また令和3年に再興された「御所ノ井」が行宮址の北にあります。
承久の乱によって土佐に遷幸されていた土御門上皇はまもなく鎌倉幕府の配慮によって阿波へ遷られます。当初は守護の館があった勝瑞城近くや板野町の松木殿に行宮が設けられていたと考えられています。
ところが、藤原定家の日記『明月記』によれば後鳥羽上皇の側近だった僧・尊長が土御門上皇を擁する討幕計画のために熊野水軍とともに行宮を襲撃する事件が起こります。
守護の小笠原長経が水軍を撃退しますが、承久の乱から8年後の嘉禄三(1229)年、海から離れた吉野川中流のこの地に約300m四方の広い敷地を用意して本格的な御所を設けました。
幕府は「寝殿」を小笠原氏、「薬屋」や「外廓」なども諸御家人に割り当てて施設を整えたと記録されています。田中省造氏は「薬屋」は「楽屋」の誤記で、上皇は雅楽などを楽しまれたのではないかと推察し、また上皇が詠まれた和歌の日付から正月や釈奠(孔子祭)、観月宴、庚申待ちなどの行事を催されていたとしています。
美波町の薬王寺には土御門上皇の行宮があったという伝承もあり、配流の身ながら神社参拝など比較的自由に行動されていたようです。鎌倉幕府が上皇を信頼し、大切に処遇していたことが推測されます。
*参照:郷土研究発表会紀要 第36号「阿波における土御門院」田中省造(阿波学会・徳島県立図書館『総合学術調査報告;土成町』
御所神社の北約6km。
香川県との県境の 鵜の田尾(うのたお)トンネル手前の 川沿いにある境外社。
通称「奥御所神社」。
ここは土御門上皇の終焉の地と伝えられており、その御神霊を奉っています。
社殿横の岩「御腹石」の上で上皇がお腹をお召しになったと土成町の旧家(澁谷家)に伝わる文書『帝王略記』に記されています。
紫雲山蓮生寺
熊谷直実蓮生坊法力建立
土御門天皇ゆかりの寺
真宗佛光寺派で、源平合戦で有名な熊谷次郎直実(蓮生)が建立したと伝わります。
本堂は天保年間に改築された際、市場町日開谷仁賀木にあったケヤキの大木を使って建てたことで「ケヤキ一本仕あげの本堂」といわれます。
土御門上皇に関係するとみられる菊花紋の布や、本堂に彫り物があります。
寺宝に十一代住職が豊臣秀吉より拝領した(「阿波誌」)という “しゃこ貝” も伝わっています。
本堂南には上皇が襲撃された際に戦った警護の武士、正則・広則兄弟の墓とされる五輪塔があります。もと吉田の張間田にあった五輪塔で、二人は勇敢に戦いながら吉田の岡の部落まで逃れたのちに自害しました。
(『土成町の史跡・伝説』)
*ふだんは非公開です。参拝ご希望の方は阿波市観光協会、または土御門上皇顕造学会(渡井)までご連絡ください。
御遷幸記念行事
「承久の乱800年 土御門上皇と徳島」
土御門上皇が土佐を経て阿波に遷幸されるきっかけとなったのが、承久の乱(承久の変)。
日本史上の大事件から800年目の令和3(2021)年におこなった一連の行事について、NHK徳島放送局の情報番組「とく6徳島」にて紹介していただきました。
(2021年12月22日放送)
https://www4.nhk.or.jp/P2799/194/